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長崎県土地家屋調査士会

長崎県土地家屋調査士会 広報見聞録

★広報見聞録
2007年4月

 

長崎支部 森三五郎
 本年亥年で、当職が年男として感想を投稿せよとの通知を受けていたことをすっかり忘れていたところ、その催促がきたのでビックリしたばかりで、頭はカラッポ、何とまとめたら良いかさっぱり・・。
 でも振り返ってみれば、昭和27年第1回国家試験を受験してみたら、合格証を頂いて、取り柄もない未熟者に感激しながら社会に準公僕者として奉仕せよとの神命を案じて土地家屋調査士を開業し、当時ボロ自転車に平板・ポール・巻尺・間尺を縛り付けて、午前は事務所、午後は現場と東奔西走したものでした。
 当時測量については、平板が主役のようになっていたように考えております。
 即ち、昭和27年法務局に、表示に関する事務の管轄替えがあるまでは、税務署扱いだった当時は、平板・間尺単位で計測は、一間縄を二つ折りして5合とし とあり、法務局に移行されたら土地台帳法が制定され、一間の100分の5、即ち5勺単位5勺未満は切り捨てとされ、更にメートル法により、5cm単位で5cm未満は切り捨ての計算でした。
 その後、国土調査法ができ、昭和46年には都市計画法も施行され、主役平板は次第に隠居役になり、トランシットと交替し、現在は光波測器・トータルステーション、と距離はセンチ・ミリメートル以下の精密となった。
 登記の申請方法も、コンピューター・オンライン申請と昭和27年当時は、おそらく夢にも想定できなかった現実となりました。
 ここで考えられることは、本年の年男は、人間もさること乍ら、関係法律・規定の変遷も競争で、猪突猛進のようで老兵は稍々もすれば骨折の危機に晒される状態を感じる今日この頃であります。
 以上、思いつきのまま所感を述べました。

雑文

長崎支部 澤田光盛
広報部からの寄稿依頼が手許にあります。
1月12日付の依頼文書で、一応の締切りが2月16日となっています。
今日はと言えば、2月14日のバレンタインチョコではないですか?
どう考えても「そのうちに書こうかな」という状況を通り過ごしている様な気がする。
良く考えてみると年男の寄稿依頼とかは12年に1回の事だから…とブツブツと言いながら書いています。
40歳で調査士を始めて20年が過ぎました。知人は「あっと言う間の20年でしたね。」と御気楽にのたまいますが、本人にとっては100年位働いた様な過酷な20年でした。
前職が機械のセールスマンで、人様に「買って、買って」とお願いし頭を下げ続けた貴重な反省がありました。
調査士を開業したのは、人様から頭を下げて依頼され「それでは引き受けましょうか。」と尊大な態度で踏ん反り返り、 仕事が終わったら依頼者から「お陰様で助かりました。」と代金持参で御礼を言われる様な仕事にならないものか?とやや不純な動機もあった様な気がします。
順調に滑り出した調査士業でした。ある面では希望どおり資格業の有難みを実感する様な事も多く、ほくそ笑む日々が続きましたが、 好事魔多しの例えどおり業務量が増えるにしたがい、書類に印鑑を押してもらう為に隣接者、登記所をはじめ関係役所にお願い事で頭を下げ続ける日々が続きました。(大げさに言えば頭を下げ続けて、私の頚椎は磨耗してしまいました。)
もう少し書類に押印を要する現システムが簡素化できないものか?とは、あながち私一人のタメ息だけとは思われないですが… その様な両面を持った資格業ですが、子育ても終わり、社会人としての納税を始めとした義務を果たす事が出来たのも調査士業のお陰だと感謝している次第です。
私にとっては天職とまではいかなくとも適職だったのかなとの思いがしています。
若い頃は、その時々の事しか考えられず将来の人生の設計とか全く無視した生活をしていましたが、今は老い先短いのに5年、10年の長いスパンで物事を見られるようになりました。
せっかく天から頂いた命だから長く大切に使わないともったいないじゃないかと、今迄出来なかった楽しい事をしてアフター60歳を悔いなく過ごしたと思います。

年男にあたって

長崎支部 石橋一浩
 おかげさまを持ちまして、三度目の年男を迎える事となりました。
 嬉しくも有り、嬉しくも無し・・。
 明日は何か良い事有るさと、誤魔化し誤魔化し過ごす毎日です。
 振り返れば、前回の干支の時は、確か補助者1年生の頃。
 当時の、生きた登記簿の閲覧も、申請書の縦書き・多画文字も今は昔となり、気がつけば、製図ペンを使う事すらあまり無く、時代の流れをしみじみと思い知らされる訳であります。
 一方、先を見れば、「四十にして惑わず。」
 本当に大丈夫か自信有りません。
 近年の不動産登記をめぐる変化を見るに、もうちょっと穏やかに変わっていってね、 と言いたくもなるのですが、そう呑気も言っておられないのでしょう。十年一昔と言っていたのは何時の事やら・・。
 せいぜい、「このオヤジ何言ってるの?」と馬鹿にされないよう精進あるのみです。
 オンライン申請にあっても、今後に備えなければなりません。
 ただ、私の戯言ですが、完全にオンライン申請になってしまうと、ひとつ困ったなと言う事があるのです。
 それは、特に建物関連の登記申請時によくあると思われるのですが、「急がれてるんです!早くお願いできませんでしょうか。」がやりにくくなるなあと・・。
 オンラインが本流になってくると、ちょっとした登記所とのお付き合いも希薄になろうかと思います。
 向こうの方も、見知った顔が来て、面と向かって泣きが入ってはじめて、「しょうがないなあ・・。」と、のび太君に泣きつかれるドラえもんのような気持ちにもなろうかと思うのであります。
 全ては、自分の心がけ次第、かな?
 しかしながら、人付き合いは大事にしたほうがいいよと、自戒の念をこめ、この雑文を締めくくります。
 お目汚し失社しました。

年男を迎えるにあたって

大村支部 園木登
 猪と言えば、猪突猛進。ただひたすら真直ぐ突き進むイメージがありますが、猪年生まれの人が皆そうだったら大変な事で、私も突き進む部類には入らないかも知れません。
今思い出したのですが、数年前、採石場の横断測量をする為に急な崖を登り、頂上に着くや否や、猪と2メートル位の距離で緊急対面をし、私も腰が抜けるほどビックリし、当の猪はそれ以上に驚き、毛を逆立てて(?)逃げて行った事がありました。
また、これはどうでもいい事ですが、もし猪と遭遇し自分の方に向かってきたら、傘を開いて今まで兄えていた自分の姿を一瞬に見えなくすると効果があるそうです。(通常持ってませんよね)
更に余談ですが、熊は鈴ではなく上記のように、ブルーシートで一瞬に姿を消すと効果あるとの事です。
かたやお隣の中国では金猪年で、五智説で言うところの「金」と財運の「豚」が組み合わさる60年に一度の非常に縁起のいい年らしく、これにあやかって出産ブームが凄いみたいですね。
私達調査士は厳しい状況の中におかれておりますが、猪年だけでも「不景気」には目もくれず真直ぐ前を向いて猛進したいものです。

年男

諫早支部 酒井和任
 今年還暦を迎えるにあたり文脈無視して思いつくままに書いてみることにしたので独善意味不明その他もろもろお許しをこう。
 年男を迎えての原稿依頼があって、およそ1ヶ月半がたった。テーマは何でもいいとのことだったので、暇に任せて考えていたら、いろんなことが浮かんできた。 さあ書こうかなと思い立つと忘れてしまっているという日々の繰り返しであった。 締め切りはいつまでだったかなとメールをめくると、もうとっくに過ぎていた。
 しかし、この1ヶ月ほどの思い出は自分を振り返るいい機会だったので自分なりに書きとめてみようと、キーボードをたたいている。もちろん不採用を覚悟で。
 生い立ちを振り返ってみると、おぎゃ一と生まれて小学校に入学するころ誰が名づけたのか、戦後べビーブーム。 1年生のころは、隣のクラス同士、高ホウキとかバケツとか雑巾でよく喧嘩していたなあ。 中学生になると1年先輩は4クラス、自分たちは7クラス。 しかも1クラスの人数は58名。教壇の前から、後ろの壁まで、机並べて教室びっしり。 隣のクラスとの仕切りは板1枚。いすを後ろに引くと仕切り板に当たり、バリッと割れる。 隣のクラスの先生が叱りに来るが、みんな知らん顔してた。授業は確か新課程とのことで、1年以上先輩との科目内容がまったく違っていたと記憶している。 高校生になっても新課程を引き継いでいた。そのため大学入試は浪入先輩たちは、苦労したようである。 しかし自分たちはもっともっと競争のど真ん中にいた。逃げられなかった。 高校生になったとき舟木和夫が高校3年生という歌を歌っていたが、そんな甘いものではなかったように記憶している。しかし今思い出すと、高校生の時が今までのうち一番の楽しい思い出いっぱいだった。 今でも鮮やかによみがえってくる。
 やがて仕事しながらの夜問大学生活、苦労した。昼間アルバイト、夜授業のため仕事場から学校へ直行。 朝飯晩飯抜きのときもかなりあった。授業中腹は減るは、眠いはであったが、机にガバッと寝ていても、教授は何も言わなかったのには助かった。
卒業して3年ほどフリーターモドキをして、諌早の民間会社に就職したのであるが、ここで30年間、楽しく過ごさせてもらった。
 いつの日か戦後ベビーブームは団塊の世代と堺屋太一?が名づけてくれて、以後何事において、特に悪いことに対して、取り上げられるようになった。 60歳定年から、65歳へ、あるいは70歳定年説もちらほらである。 また年金問題も団塊の世代をにらんで改定されてきている。今マスコミでは、団塊の世代定年退職期を迎えて、喧々諤々である。 私が54歳のとき会社曰く「51歳以上の方は全員定年退職そして別会社員として再雇用」 素直に定年退職に応じ、別の道(現職)を目指すことにした。
 さて諌早にきて30年の問に、自由時問がたっぷりあったので、いろんな趣味を味わうことができた。仲間もたくさんできた。ちなみに趣味の種類を列挙してみようと思う。
釣り
最初は波止場から瀬渡し船利用にそしてマイボート。 この10年ほどは、ボートの維持のみで、釣りを忘れている。そろそろまた始めるつもりである。
スキューバダイビング
英語で言えばかっこいい。何のことはない、もぐって海の幸を少しいただくだけ。素もぐり10mほどはいける。
ゴルフ
どこに飛ぶのか行方知れずのため危険を感じ10年ほどで完全停止。
囲碁
今ではほとんどしていないが、自称5段
将棋
駒の進路がわかる程度だが自称初段
登山
九州から外へは出ていない。大昔富士山登山
パラグライダー
3年ほどの経験。また始めたい。空は感動ものだが空気の乱れは、恐怖そのもの。 大型旅客機でさえ、乱気流に翻弄されるほどだから、布のパラグライダーは言わずもがなである。
ジョギング
フルマラソン5回以上完走。現在は5キロ程度を楽しんでいる。 目標は阿蘇100Kマラソン。あくまで目標。
ウォーキング
調査士仲間からのお誘いがあり、少々程度、国家資格取得現在12有資格プラス13個目に挑戦中。
ボランティア活動
同じ町内会の人たちと一緒にパソコン教室を1年半ほど続けている。
 途中で止めた趣味、新しく始めようと考えている趣味。 残っている人生を、のんびりと味わいながらこれからもいろんなことを経験し楽しんで生きて行きたいと思っている。
とりとめもない自己紹介をここまで読んでくださりありがとうございました。
それでは失礼します。

 

島原支部 藤原靖
 新年明けましておめでとうございます。
 年男ということで特別な感慨はないのですが、過去の年男の年に何があったのかと振り返ってみると、忘れられない出来事が起こっていました。 4回目の今回も何かが起きるのか、きっと嬉しい事であると信じていたいです。
 昭和63年2月に開業して19年。 これまで私の回りの皆様に迷惑をかけつつも、支えて下さる方々のおかげで今日まで来ることができました。 近年、現場がきつくなり、パソコンに長時間向かうのもつらくなってきました。日頃の自己管理の甘さを恥じるばかりです。 開業以来の補助者であり、事務所の実質的なオーナーである妻と共に、心と体の健康に気をつけつつ、今後やれるところまでやって行きたいと思います。
 生来の口下手、筆不精のため拙い文章ではありますが、考える機会を与えて下さった広報部の皆様に感謝します。
 最後になりましたが、皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。

団塊世代

佐世保支部 今泉邦俊
今や団塊世代の大量定年で多くの友人が第二の人生へ歩き始めている。  私も還暦を迎え今日までしてきた仕事に対する反省とこれから先どう向き合っていくか、考えるいい機会にしたいと思っている。 土地家屋調査士の考え方も時代の変化で技術もさる事ながら法律的要素が強く要求されてきている。
ADRにしてもしかり。専門家責任が問われる今日です。
ストレス社会で自殺者も多く命を大切にと言われているが生きている事こそ功徳である。 私も仕事を大切にし人に迷惑をかけない様心掛ける事が功徳だと思う。  今大河ドラマで風林火山があっているが

   仕事を受けたら風の如く疾(はや)く
   徐(しずか)に仕事の流れを考え
   専門知識を駆使して侵掠(しんりゃく)し
   心(考え)動かざること山の如し

 正に業務に於ける「風林火山」である。
私もお不動さん参りに行くが、不動とは考えがふらつかない事で、身動きしない事ではない。考えが決まるとすぐ行動に移せる。
この事が大切なのだ。
最近病院でもインフォームド・コンセプトとして医者が患者に詳しく説明をされているが、私もこの事を取り入れ依頼人に納得のいく説明をなし、満足のいく仕事を成し遂げる事を目指したいと思う。
訳あって私は若いころより仏門と縁が深かったが
  人は生きているのではなく、生かされている
  命は授かりものでなく、預かりものである
  先祖があるから自分という存在がある。
命ある限り人の為、社会の為役立てる様にと強く教えを被った。
私は在家信者でもなく普通の人間であるが、
高僧な人の話を聞くことは多い。それを糧として今日まで生かされてきた。
迷いは必ず生じる、それをどう克服するかは自分自身の心の中にあると思う。
とりとめのない話になったが
最後に会員皆様のご健勝とご発展をお祈り致します。
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